GiFT monologue-14「日本の“聴き方”と世界の“聴き方”」

日本で“コーチング研修”を山ほど手掛けてから、アメリカの大学院に臨床心理学を学びに行きました。そこはカウンセリングに関してはカリフォルニア州でもトップクラスの大学院でした。自分が日本で教えていたこともあって、教え方の違いにはとても興味を持っていました。

例えば、今回のタイトルの「聴く」です。日本では、聴き方の『型』を教える傾向があります。「聴くときの姿勢」「体の位置と向き」「目線」「うなづき」「相槌」などです。ところが、私の通っていた大学院で、そんなことを教えるクラスはひとつもありませんでした。ダイバーシティに溢れる国で、最大公約数として好まれる平均的な聴き方なんて、あり得ないのかもしれません。

では、大学院では聴き方をどう教わるのでしょうか。

どのような聴かれ方が喜ばれるのか、好まれるのか、それは人によって違います。同じ人でも、話す中身や時々の体調によっても違います。クラスでは、それこそ、いろいろな人と山のようなテーマで山のようにロールプレイをこなして山のようにフィードバックをもらう。その中で自分なりの聴くスタイルを身に着けていく。それだけでした。

ちなみに、私の限られた経験ですが、典型的なアメリカ人の聴き方は、相手の目をじっと見て、ほとんど頷きません。そして、自分の理解を相手に伝えるために言葉を重んじます。「私はあなたをこう理解しました」「こういうことなのですね」「こういう理解でよろしいですか?」

世界を旅しているとき、ドイツ人やノルウェー人の友人からはよくこう指摘されました。「大樹、頷くだけじゃ、理解してもらえているのかどうかわからない。言葉で言って欲しい。賛成なのか、反対なのか。その意見は好きなのか、嫌いなのか」。なるほど、と思いました。「聴く」に何を求めるのか。何をもって「聴かれている」となるのか。「聴く」あるいは「聴き方」とは、その国の文化の産物なのも知れません。