世界一周旅行記:Inner journey Outer journey(2011-2013)

終わりと始まりの間で

「旅を終えて帰国するとは、それまでの空の生活から、陸の生活に戻るということ。
まずは、陸地の生活に慣れなさい。焦ることで、シンプルなことを無理やり複雑にしないように。」

空の生活から陸の生活へ、という喩を使ったこのアドバイスは、
僕の旅が後半に迫っていた時、異なる国で出会った、異なる国籍の3人からされたものだ。

1年10カ月に及ぶ世界を廻る旅を終えて、僕は次の人生のステージに向けて
意欲満々で日本に帰ってきたかと言うと…、

必ずしも、そういう風では無かった。

では、旅の終わりを嘆いて帰ってきたのかと言うと、
全くそう言う風でもない。

それは、見渡す限り何もない大平原に立っている感じに似ていた。

孤独感があるわけじゃない。無力感や燃え尽き感があるわけではない。
そこに立っている僕は、どっちの方向に歩いて行ける大きな自由を持っている。

ところが、

それ以外に何も持っていないのだ。

さしあたって、具体的なものを上げるとすると…、
それは等身大の自分自身だけだ。

それで充分なのかもしれないけど。

さて、どちらの方向に、どのタイミングで歩き始めようか。

…。

世界一周を無事に終え、留学と合わせて、僕は幸運にも、今生で、
もしそれを叶えずに死んだとしたら絶対に後悔するだろうなと思っていた、
2つの大きな夢を叶えることができた。

思いっきり、それらの夢の中を生きることができた。
そのことについては、心から満足している。

ところが、

世界一周も、修士課程への留学も、「やりたいこと」「達成したいこと」という表現で語られる夢のうち、
実は個人的な経験の枠内で完結する事柄でしかないと、ずっと思っていた。

言い方を変えると、留学も世界一周も、見ようによっては、社会の生産活動からは
切り離されたところで実現される、“遊び”に似た領域に属するものかもしれない、
ということだ。

終わりは始まりでもある。

僕の次の夢は、社会との関わりの中で他者にとって意味のある何かを実現すること、
という風に進化していくべきだろう。このことは、ずっと考えている。
そして、ビジョンはある。

いま、そこに進んで行く覚悟をもう一度自分の中で確認しているところだ。

それはそれとして、

帰国してからこの10日間、僕は市役所でいろいろ手続きをして、
病院に行って気になっていた健康状態をチェックした。それ以外は、久しぶりのに再会した
両親と妹とゆっくり時間を共有し、千葉県の片田舎にある実家で、
移動をしない日々を送っている。

それらはとてもシンプルなことなのだろうけど、旅の中では出来なかったことだ。

…。

旅をしている時、

「TJが一番好きな日本食って何だい?」

外国人の友だちに尋ねられて、僕はしばしば応えに詰まったことがある。

寿司や刺身、鍋やうどんやソバ、かつ丼やとんかつ、しゃぶしゃぶなどは、
名詞としてあるので説明しやすいのだけど、

例えば、

温かいみそ汁とホカホカの白いご飯があって、鰹節をまぶしたおひたし、
ちりめんじゃこの乗った大根おろし、長ネギとシラスをまぶした納豆があって、
野菜の煮物と、アジの開き、あるいは煮魚…、実は、僕はこういうのが一番好きなのだけど、
こういう総体としての和食を、英語ではいったいどう表現するのだろう。

僕は、いま毎日、そんな食事に囲まれている。
ハッピーだ。

…。

部屋の壁に大きな世界地図が貼ってある。
僕は、しばしばその前に立ち、それを眺める。

自分が訪れた国やルートを目で追って辿っていく。
辿ったコースはとぎれとぎれの線になっていて、ずいぶん歪だ。

改めて、たくさん訪れていない国や地域があることに気づく。

僕は地図の前で腕を組みながら考える。

「果たして、僕は世界を観てきたと言えるのだろうか…」

それに加えて、旅の期間を訪れた国の数で割ると、僕は平均して一カ国にせいぜい2週間程度しか
滞在していないことになる。もちろん、もっと長く滞在した国もあれば、
もっと短かった国もある。

いずれにしても、1年10カ月と言う時間は、世界を観るにも、それどころか、
そのプロセスで一つの国を体験するにも、あまりにも短い期間だったのかもしれない。

いや、そもそも“世界”とは、コンセプトであって、実態ではない。
地球を一周することならわかるけど、世界を一周すると言う時、
それはいったい何を意味しているのだろうと、今更、思ったりする。

僕が世界を観ることができたのかどうか、それは定かではないけど、この1年10カ月を通して、
ほんの少し“世界”を感じることはできたんじゃないか。

僕にとって世界を感じるとは、その多様性を感じることだった。
僕たちの住む世界は多様だから美しい。
心底、そう思った。

もしその多様性が失われたら、世界を旅する意味も理由も無くなるだろう。

旅とは、多様性の中に飛び込むこと、多様性の中を生きること、
多様性を受け入れていくことだ。

そのプロセスで、相手の違いを受け入れ、同時に、自分の違いに誇りを持つことが
旅を通しての成長だろう。

でも、“違い”にばかり焦点を当てると、バランスを欠く。

旅の中での出会いは、最初は“違い”に目が行くものだけど、
そこから更に一歩踏み込めば相手の中に“同じ”が見えてくる。

個人的な体験から断言できる。
僕たちは、世界中の誰とも、“違い”から学び、“同じ”で繋がることができる。

そういうスタンスを持って1人1人が生きていくことが、自分だけでなく相手をも輝かせ、
個の生き方の総体としての社会の美しさにも繋がっていくんじゃないだろうか。

さて、この旅を始めてから毎日綴ってきたブログだけれど、
一応、今回で最後にしようと思う。

旅の中でしばしば尋ねられた3つの質問にシンプルに応えて、
締めくくりとしたいと思う。

その質問とは以下の3つだ。

1.どこの国が良かったか?
2. この旅を通して、自分はどう変わったと思うか?
3.次は何をするのか?

1.どこの国が良かったか?
仲の良い友だちのできた国が一番良かった。

もちろん、世界遺産はどれも素晴らしかった。
Peru(ペルー)のMachu Picchu(マチュピチュ)も、
Cambodia(カンボジア)のAngkor Wat(アンコールワット)も、
Jordan(ヨルダン)のPetra(ペトラ)も、Tanzania(タンザニア)のSerengetia(セレンゲッティ)も…。

でも、未だ訪れていない他の場所を差し置いてもう一度行くかと言われると、どうだろう。
少し考えてしまうけど、仲の良い友達のできた国は違う。僕は彼らに会うために、
その国に、その場所に、2度でも3度でも、いや何度でも訪れることだろう。

2.この旅を通して、自分はどう変わったと思うか?

その変わった自分を認識する“自分”も変わってしまったような気がして…、
実は、どう変わったのかよくわからないのが現段階での正直なところだ。
もしかしたら、何も変わっていないのかもしれない。

ゆっくり実感していきたいと思っている。

3.次は何をするのか?

何をするか“決める”と言うよりは、最終的にそれは、僕が進みたい方向とこれから出会う人たちによって、
“決まる”んじゃないかと思っている。

僕が進みたい方向としては、前々職の経営コンサルタント、前職のエグゼクティブコーチ、
あるいは、アメリカで学んだ臨床心理学の知識を生かした心理カウンセラー。これらの3つの円と
縁の交わるところで、聴く・問う・話す・書く・教える・考えるの6本を柱に、社会を関わっていくこと。

そして、

今度は自分ではなく、あなたの“内なる旅 外なる旅”を支援する側に回りたいと思う。

春頃から本格的に動き出すつもりです。
興味のある方、プロフィールにあるメールアドレスに気軽にご連絡ください。

長きにわたってこのブログを読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。

また、このブログを通してメッセージを下さった皆さま、旅の道中は慌ただしくて、
全て目を通していたのですが返信をしませんでした。申し訳ございませんでした。
でも、毎回とても励みになっていました。この場を借りて御礼申し上げます。

近々どこかでお目にかかることを心から楽しみにしています。

Until then…